昭和四十八年七月三十一日 御理解代三十四節


 「此処へ参っても神の云う通にする者は少ない。皆帰ってから自分の良いようにするのでおかげはなし。神の云うことは道に落として仕舞い我が勝手にして神を恨む様な者がある。神の一言は千両の金にも代えられぬ。有難く受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのない事ぞ。」


 と、教えて居られます。この御理解を頂いて有難く受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程の神徳があると、ここ迄でよさそうな感じが致しますね。
 御理解を読んだり聞いたりしてから、此処へ参っても神の云う通にする者が少ない。教えを頂くけれども、教えは守らないで、もうそれこそ道で落としてしもうて自分勝手な事をしておかげをよう頂かず、ようおかげを頂かぬことを如何にも神様がおかげをやり切んなさらん様に思う。おかげを落して、これ程信心するのにどうしてこう云う事が起こるだろうかと云った様な頂き方をする。
 神様を恨む様なことにすらなり兼ねない。神様の一言は千両の金にも代えられんのだから、有難く受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある。ここ迄で大体よい様ですね。
 後からのところつながりが悪い。心の中を改める事が第一なり。神に一心とは迷いのない事ぞと、云うことは何かチグハグの様な感じがするのですけれども。
 とにかく教えを賜わってそれを行じて、おかげを受けて、神の一言は千両の金にも代えられぬ程しの、云うならお徳のこもったものであるから有難く頂いて帰れと云うだけでよかりそうなものを、最後のところ付け加えた様に心の中を改める事が第一なり、神に一心とは心に迷いのない事ぞと、これだけは別に御教え、別に御理解で言うならまだわかるけども、チグハグの様な感じがするですけれども、私は今日はここんところに一寸矛盾の様なものを感じますけど、前半と最後のところ、けれどもやはり何と云うても信心に改まることが第一だという。又神に一心とは迷いのないこと。迷わずに一心にしかも日々の改まりを第一にしながらと云うところが、やはり出来なければ神の一言が千両の金にも代えられないお徳のこもっておる事だと云うことを実感して受けることが出来ないのだと云う風に思う。只話を聞く、ですからここのところはですね、例えば教えを頂くと云うこと。そしてそれを守と云うことがもうそれに精進しなければ居られないと云うところまで行かなければ駄目です。
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  今日昼の、今日で夏の修行が終りますけど、今日最後に頂きます信心する人は何事にも真心になれよと云う御神訓に基づいて今日頂く訳なんです。それを前日の昨日頂いた。もう一時の御祈念が済んだらすぐ頂いた。
 これはどういう事だろうかと、信心する人は何事にも真心になれよとは神信心する者は何事にも信心になれよと、これは皆さんもよく口に出すことです。信心する者は何事にも真心になれよと仰るから、ところが御理解説きようがない。
 ところが昨日頂きますのにね、
 特に歌舞伎には女形と云うのがあります。いわゆるおやま、その女形芸に徹した俳優のあの瑞々しい女らしさ、女にでもあれ程の女気は出せないと思われる程しに舞台でそれを表現することが出来ると云うのは、もう常日頃です、もう女になり切る事に精進しきっておるからだと云うことです。ですから、自分がこれはまあ歌舞伎の俳優は必ず一応は女形芸と云うものは身につけてからでなければ、男役は出来ない。もう必ず女形芸をだから皆身につけるわけです。歌舞伎俳優は。
 けど、仲には真女形と云うのですかね、本当の女形だけしかやらないと云う俳優の場合です。これはいわゆる女形芸と女形の云うなら芸と云うあの舞台で瑞々しい男でありながら、女らしさを表現する。もうこぼれる様な色気を発散する様な、これはもう芸の力である。もう常日頃もう女になり切ろうと云うことに精進しとるからだと云うのです。
 今日一時の時にこれは読ませて頂く訳ですけれども、丁度今日の御理解にぴったりの様ですから聞いて頂きますとですね。何事も信心になれと云うことはね、お道の信心者らしくなれと云うことです。お道の信心者らしくなれと魅力溢れる信心者になれと云うことですとある。だから、只形の上だけが信者らしくと云うのではなくて、この魅力溢れると云うところはです、実際に実意丁寧神信心、それにおかげが伴うてくるおかげが頂けれる。それが魅力なんである。 信心のない人達がみて、成程人間が変わんなさった、そしたら成程おかげを頂きなさる。これが私は魅力溢れる信者になれとはそういう事。その内容は実意丁寧神信心によって人間の上にも、家庭家業の上にもおかげを受ける事ですとある。神信心に依って人間の上にもまずここんところは、先ず人間の上にもと云うことは、改まりに改まって行かなければ人間の上にはおかげは頂かれん。
 人間が立派になる、勿論家庭の上にも家業の上にもと云うことは、家庭の上にも円満になって來るし、家業の上にも繁盛のおかげになって來ると云うそれが魅力溢れる信者になれとはそういう事。魅力溢れる信者と云うことはどういう事かと云うと、その内容は実意丁寧神信心。お道の信者らしくなれ。先ず信者らしくならなきゃいかん。
 それには私共がです、本当に真の信者になろうと精進しなければいけない。それは女形の俳優が女になり切ろうと云うことにもう常日頃の舞台の上だけでなくて、常日頃ですらもその事に精進し切って居るように、私共が真の信者に成りきろうとする精進が要るのです。
 おかげは頂きたいと云いながら金光様の本当の信者になり切ろうという精進をしないじゃないですか。
 精進するからこそ舞台の上であの瑞々しい女らしさと云うものがどこででも出来るのである。それは大体はとても私共がよい人間に成れそうにもない程しのめぐりの深い、心の汚い、浅ましい人間だけれども、真の信者になろうと精進すると男でも女らしうなれれる様にです、私共が教えに基づいて本当に金光様の御信者らしうならせて頂こうと精進するならばです、誰でもが真の信者に成れれると云うこと。いわゆる人間が変わって來ると云うこと。変わって來ればおかげが伴うて來ると云うこと。その事は信者らしくなれであり、魅力溢れる信心になれと云うことなんです。
 魅力溢れる金光様の御信者にならせて頂かにゃいけん。でなかったらおかげが伴わない。それには普段の精進が必要だと。
 だからここは心の内を改めることが第一なり、神に一心とは迷いのない事ぞ。もう一心と金光様の御信者らしうなろうとお道の信心を頂くごとなったんだから、何処からみても金光様の信者らしうならにゃいけんのに、金光様の信心には例えば、日参り夜参りしておってもです、金光様の信者らしくない。あれだけ金光様の信心しよるけどもと後ろ指を指される様な、云うなら日常生活であってです、これじゃ真の信者を望むよしもないことになってくる。それは女形芸を身につけて行こうとするその俳優のそれの様な精進が要るのじゃないでしょうか。
 私は金光様の信者ともう、たかをくくらずに本当のお道の信者になろうと、お道の信者らしくなろうと、そんならどうしなければならないか、先ずは実意丁寧神信心にならなければならない。
 それには人間が人間と又は家庭と家業の上におかげを頂くためには、先ずは改まることを第一として改まる精進をさせて貰う。しかもそれが一心でそれをつとめさせて頂くところからです、それこそ誰が見ても成程金光様の御信者じゃ、成程立派なもんだと、成程実意丁寧神信心だ。又ああいうおかげが受けられる。本当に信心をせなければならんなあ、自分もさして頂きたいもんだと云った様なものをです周囲に発散出来る様な信者にならせて頂かねばならない。 舞台で男でありながら女らしさを発散する様に、する事が出来るように私の様な屑の子と自分で思う位、思うように浅ましい私共であるように、その私共が教えを頂いてです、神様の言うことを神の言う通りにする者が少ない、皆帰ってから自分のよいようにするからおかげはなしと仰るように、自分のよいようにせずに神様の言われる様にせなければ、それは決して難しい事ではないのですから、そういう事に精進しなければいけない。
 そこに真の信者と云うことにその真の信者の姿がです、誰がみても魅力溢れるものになって來るです。
 人間の上にもおかげを受ける、家庭の上にも家業の上にもおかげを頂く。そういう意味でです、心の内を改める事が第一なり、神に一心とは迷いのない事ぞと云うところがです、何故なされなければ身に付かないかと、今日の昼皆さんに聞いて貰おうかと思うその中から感じ取らせて頂いたらよう分かる様な気が致しますね。
 本当の女形になろうと思うたら、もう舞台の上だけはない、もう常に日頃からの精進をしなければならない様に、本気でその信心を分からせて下さい。真の信者になりたいと口で言うとるだけでは・・・・・・本当にそれを思わなければ真の信者になろうと思うたら。なら日常生活の上にもです、どうあることが信者としての生き方かと云うことをです、御教えに頂かして貰うて、それを身につけていくと云うことに楽しみが出来て來る様な信心生活をさして貰うと、そこから成程神の一言は千両の金に替えられない程しのもの。有難く受けて帰ればそれを有難く頂けば、土産は船にも車にも積めぬ程しの神徳がある。先ず神徳を受けること。神徳を受けた人達の、例えば姿と云うものは誰が見ても、成程信心の徳じゃ、有難いもんだなあ、又そのおかげを見てこの神様じゃなあと云う様なおかげになって來る。そこに私は魅力がこぼれる程しの、いわば信者としてのです、魅力こぼれる程しの信心が出来てくると思うんですよね。   どうぞ。